【もののけ姫】とはスタジオジブリが制作した長編アニメーション作品です。宮崎駿監督が構想16年、制作に3年を費やした大作映画で、1997年7月に公開されました。人と自然との関わり方や生命を描いた【もののけ姫】は大ヒットを記録し、アニメーション映画ながら当時の日本映画の興行収入を塗り替えています。
【もののけ姫】で描かれるのは戦国時代に入る少し前の頃、室町時代後期の日本です。作中、エボシ御前のセリフに「明国」という言葉があり、つまり【もののけ姫】は明国が成立した1368年以降の話ということになります。
アニメーション映画【もののけ姫】の冒頭で倒されたイノシシの姿を取ったタタリ神、それがナゴの守です。読み方は「なごのかみ」。見た目がイノシシだけに突進力に優れ、巨体の持つ圧倒的な力とスピード、そして怨念による強いケガレの力で通りかかる村を苦しめます。
【もののけ姫】の冒頭でナゴの守が逃れてきたのはアシタカの住む村「エミシの村」です。「エミシ」は「蝦夷(えみし)」であり、東北や北海道、北の地を指す古い言葉です。また、それは大和民族の支配をよしとしない、いわゆる「まつろわぬ民」の住む地を指す言葉でもありました。
4~5世紀の畿内に成立し、東西に勢力を伸ばしていった大和の民は500年以上前の平安時代初期から東北に「征夷」と称してたびたび攻め入り、降伏させています。「夷」とは東方の未開人を指す蔑称です。「夷」を「征する」と称して幾度も攻め込まれ、破れて散り散りになった民の末裔がアシタカたちなのです。
抵抗を続ける東北地方の人々の中でも有名なのは「阿弖流爲/阿弖流為」(読み方は「アテルイ」)でしょう。乙事主は500歳なので、イノシシ神の長老は阿弖流爲の時代の少し後に生まれたことになります。
作中、ヒイさまと呼ばれる村の老婆が「大和との戦に破れ、この地に潜んでから500有余年」というセリフを口にします。この合致から、エミシの村は阿弖流爲と一緒に大和王権に抵抗した一族、あるいは同時期に阿弖流爲同様抵抗し、破れた一族と考えられます。歴史とうまく絡めているからこそ、【もののけ姫】の物語にさらなる深みを感じます。
タタリ神になる前、ナゴの守はもののけ姫やモロの君同様シシ神の森に住み、森の木を切り砂鉄取りで川を汚す人間に怒って現れます。しかし人間に自然破壊をやめさせるどころか深手を負わされ、自身も死の恐怖と石火矢の毒を植え付けられてしまいます。
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【もののけ姫】の作中でタタラ場がどこにあるかははっきりとは示されていませんが、中央政権が影響をおよぼしにくい辺境であったことが窺えます。【もののけ姫】のストーリー中盤、アシタカは「東から来た」と口にしています。東北より下、室町(京都)より上とも考えられます。
ヒイさまの占いで「かの猪(しし)は、はるか西の国からやってきた」と出たことから、【もののけ姫】の舞台は中国地方である可能性も考えられます。
たとえばタタラ場が北陸や甲信越にあったとしても、現在でいう「県」をまたいで東北(おそらくは北東北)まで何百キロも駆け続けてきたことになります。その原動力となった死(=シシ神)への恐怖心、そして人への憎しみや恨みの心は相当なものであったことが想像できます。そしてその強い負の感情は周囲の同じようなマイナスのエネルギーを集め、「守る神」は「祟る神」へと変貌するのです。
ナゴの守はタタリ神として暴威をふるう中、アシタカの腕に穢れを残します。穢れはアシタカの腕に印となって残り、以降折に触れアシタカを苦しめることになります。アシタカはエミシの村の人々から見れば村を守った英雄と言えますが、同時に神を殺した大罪人にもなってしまうのです。
腕にできたアザはやがて骨まで届いてアシタカ自身を殺すと予言され、アシタカは呪いを解く方法を探して旅に出ます。おそらくは隠れ里を出ること、加えて神を殺す禁を破ったことから村人の見送りは許されず、罰覚悟で現れたカヤという少女一人に見送られた孤独な門出でした。これが【もののけ姫】という作品の起承転結の、起にあたる部分です。
ナゴの守はイノシシの姿をしていますが、【もののけ姫】の作中にはイノシシの姿の神が他にも出演しています。
齢500歳、他のイノシシたちとは比べ物にならない偉容を誇る乙事主(読み方は「おっことぬし」)です。乙事主には眷属がおり、しかし乙事主のように大きくはありません。
乙事主のセリフで「(わしの一族は)みんな小さくバカになりつつある。このままではわしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう」とあります。一族の神威が少しずつ弱っていると考えられます。それは自然破壊や人々の信仰心の薄まり、時代からの「種族としての淘汰」が原因ではないでしょうか。
乙事主はナゴの守の辿った結末をアシタカの口から聞き、その死を悼み、一族からタタリ神を出してしまったことを悲しんでいましたが、皮肉なことに乙事主もナゴの守と同じ運命を辿ることになります。
ナゴの守のナゴは、『霧(なご)』を表す古語を連想します。川から霧状に立ちのぼる水蒸気のことをナゴと呼び、地域によってはいまだに霧をナゴと呼びます。かの『鬼平犯科帳』にも『霧(なご)の七郎』というキャラクターも登場します。
あるいは『「ナ(土地)」「ゴ(崖)」』(=崖のある険しい地、あるいは崖が崩れてできた土地)ではないでしょうか。そのような、厳しい自然に住まう神にイノシシの姿はしっくりとなじみます。いずれにしても古くから存在していた土地神としての格を想像させる名です。【もののけ姫】には古語を連想させる神の呼び名やセリフ内の古い言い回しが多数ちりばめられ、時代を感じさせます。
ナゴの守を殺したもの、それは直接的にはとどめを刺したアシタカの矢と言えます。しかしナゴの守はそれより前にエボシ御前の石火矢に撃たれており、それが原因でタタリ神に変じています。タタリ神に変じたのはただ「死にたくない」という願い、死への恐怖からです。
物語後半、サン(もののけ姫)の育ての親であるモロの君は「彼奴は死をおそれたのだ」「ナゴは逃げ、わたしは逃げずに自分の死を見つめている」とサン(もののけ姫)に語っています。また、「わたしは十分に生きた。シシ神は傷を治さず命を吸い取るだろう」とも言っています。
エボシ御前のテリトリーはタタラ場付近であり、その近くにはシシ神の森があります。終盤、ナゴの守同様にタタリ神に変じた乙事主はシシ神に命を吸い取られ、500年という長きにわたる生の終焉を迎える描写があります。
つまりモロの君や乙事主と同じく長寿であるナゴの守は、エボシ御前に撃たれて「毒のつぶて」(※モロの言葉)を浴びた時点で、シシ神に会えば死ぬ確率が非常に高くなっています。当然ナゴの守自身それは簡単に想像できるはずで、あるいは本能的な部分でそれを事実として悟っていたのかもしれません。
ナゴの守はシシ神に命を吸い取られる(=死ぬ)のを恐れ、ただシシ神とその生息地である森から逃れるために山野を駆け、「痛み」や「恨み」、「憎しみ」、そして「恐怖」といった負の感情から徐々にタタリ神に変貌していくのです。そしてこの時点で『ナゴの守』という古き気高い山の主はいなくなり、黒い蛇に覆われたタタリ神が誕生します。
息絶える寸前のタタリ神に、ヒイさまはそれでも神としての礼を尽くし「この地に塚を築き、あなたの御霊をお祀りします」「恨みを忘れ鎮まりたまえ」とこうべを垂れます。しかしタタリ神となったナゴの守には届きません。
「けがらわしい人間どもよ、わが苦しみと憎しみを知るがいい」
今わの際の、呪詛と言ってもいい言葉です。森や土地、自然を守るものだった神が真にタタリ神となり、自分をこんな風に凋落させた人間を呪いました。この時点、人は自然の敵であり、自然を弱らせる者でしかありません。ここからエボシ御前の意識が変わる【もののけ姫】ラストまで、因果は絡み合って物語は加速していきます。
ナゴの守がタタリ神になった理由は、【もののけ姫】のテーマそのものと言っても過言ではありません。人の手で殺され、神の座から堕とされ、ナゴの守は名実ともに存在を消されました。
しかしもののけ姫の母親、モロの君のように最後まで自分を保ち、せめて神として死んでいく道もあったものを、それをナゴの守は選べませんでした。結果、ナゴの守は今まで自分が守ってきた自然を壊し、汚し、みずからがケガレとなります。
ナゴの守がタタリ神になる決定的な理由は、ナゴの守自身にあったのです。【もののけ姫】は解決の難しい深いテーマをいくつも描いた、何度でも鑑賞したい名作です。