【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】事件の概要
全日空61便ハイジャック事件は1999年7月23日に発生したハイジャック事件です。新千歳空港行きの全日空61便は乗員14人、乗客503人の計517人を乗せて羽田空港を離陸しました。離陸直後に全日空61便はハイジャックされ、犯人は客室乗務員に包丁を突きつけてコックピットに侵入しました。午前11時25分頃に機長によって地上管制にハイジャックされたことを緊急連絡し、11時38分に犯人は副操縦士を外に出して、機長と二人きりになりました。
そして、11時45分には対策本部が設置されました。犯人は機長に横須賀への飛行を指示し、機長は指示に従い変針しました。また、犯人は高度3000フィートに降下するように要求をして、機長は管制官に報告をして降下しました。高度3000フィート付近はヘリコプターなどの小型機が飛行しているような低空で、非常に危険な飛行となりました。その後犯人は伊豆大島方面への飛行を指示し、大島付近に到着すると、横田基地へ目的地を変更して、犯人は自ら操縦を行わせるように要求しました。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】犯人自ら操縦を要求!
とても危険な行為であるので、機長は要求に対して犯人に刺激を与えないようになだめましたが、犯人は機長を所持していた包丁で刺し、自ら操縦を始めました。
11時55分頃に犯人は神奈川県上空を降下しながら、横田基地付近で急旋回して南下し迷走飛行を行い、急速に高度を下げたことで警告音が鳴り、副操縦士は危険を感じ、非番で乗っていた別の機長と乗客に協力を要請し、コックピットに突入しました。突入は成功し副操縦士が機体を上昇させて高度は安定しました。その後、機長が刺されたことを伝え羽田空港に0時14分頃に緊急連絡着陸しました。犯人は警察に引き渡されました。乗客に怪我はありませんでしたが、刺された機長は乗客として同乗していた医者によって死亡が確認されました。
犯人が操縦していた時、機体は2分間に500メートル高度を下げていた状態で、もし副操縦士らが突入しなければ、八王子市南部の住宅に墜落していた可能性があったと後の推測で証明されており、もし墜落していたら乗客のみならず、住民も多く被害にあっていた可能性があるとし、勇気を出して犯人を制圧した副操縦士と協力者の判断に賞賛の声が上がりました。これが全日空61便ハイジャック事件の概要になります。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】西沢裕司は優秀な人だった
犯人は西沢裕司で1970年生まれです。当時28歳でした。子供の頃から成績優秀な生徒だったそうで、西沢裕司を知る人は「いい子だった」と語っています。しかし、コミニュケーション能力が低く、小学2年生から3年生の間いじめられていたそうです。
中学校を私立の名門の武蔵中学校に進学し、高校も武蔵高校に進学しました。大学は国立の一橋大学を卒業しており、成績はかなり優秀でした。大学時代には羽田空港でアルバイトもしていたそうで、子供の頃の夢はパイロットで、フライトシミュレーターのパソコンゲームが趣味で、旅客機マニアだったそうです。
旅客機マニアということもあり、航空業界への憧れは強く、羽田空港に着陸する経路を30種類把握していたり、羽田空港内の構造にも詳しかったそうです。一橋大学を卒業してからは航空会社への就職を希望していたそうですが、全て落選してしまいます。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】鉄道関係に就職するが…
その後JR貨物に入社し、寮での生活がスタートします。しかし、航空会社に入社することが出来なかったことや、コミニュケーション能力が低いことで周りの同僚とのコミニュケーションが上手くいかずにうつ病を患ってしまい、自殺を考えて寮から出て行ったこともあったそうです。
しかし、自殺することが出来きなかったそうですが、仕事は辞めて精神科治療を受けていました。複数の精神科で受診した結果、総合失調症と心因反応と診断されました。その後西沢裕司は家に引きこもる生活となりました。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】犯行の動機
旅客機マニアだった西沢裕司は子供の頃パイロットを夢みていました。そんな西沢裕司は羽田空港の配置図から空港の警備体制の欠落を発見しました。
このことを東京空港署などに死角があることを指摘しました。航空会社で働くことを諦めていなかった西沢裕司は自分の知識が膨大であることをアピールしました。そして、電話でも防止策案を提案し、採用も希望しましたが、拒否され、以前に指摘した死角についても無視をされてしまいました。
「何故自分のような膨大な知識がある人間が認められないのか?自分の犯行手口に関する仮説と実証をまとめたのだから、自分を認めてほしい」というように思うようになりました。
しかし、一向に相手にされることなく、次第に航空会社に対し苛立ちを覚えるようになり、書面で事前に提出した実行手順を自ら行うように計画するようになりハイジャック事件を起こしました。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】欠陥とは?
異常なまでの航空会社への執着心から、認められないことに苛立ちをいだくようになり今回の事件につながっていまいました。なぜ、機内に包丁を簡単に持ち込むことが出来たのか?それは先ほど紹介した西沢裕司は事前に指摘した欠陥が原因でした。実際に西沢裕司はこの欠陥を利用して犯行に及びました。
西沢裕司はまず、「羽田空港→伊丹空港」と「羽田空港→新千歳空港」の航空券を同時に購入しました。そして、当日に包丁が入ったバックを預け荷物として「羽田空港→伊丹空港」の便に乗りました。そして、再度往復するために包丁入りのバックを預け荷物として「伊丹空港→羽田空港」に同乗しました。
羽田空港に到着してから包丁入りのバックを持って出口に出ずに、職員専用の階段を使用して出発ロビーに移動しました。そして、あらかじめ購入していた「羽田空港→新千歳空港」の航空券で全日空61便に乗りました。これをすることで機内に簡単に包丁を持ち込むことが出来ました。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】機長はどのような対応を?
1999年7月に発生した全日空61便ハイジャック事件で機長を務めていたのは長島直之さんで副操縦士の古賀和幸さんでした。機長と副操縦士に二人はどのような対応をしたのか?
コックピットに侵入した西沢裕司は副操縦士の古賀さんを外に出したので機長の長島さんが犯人の対応を行いました。長島さんは交信をつなぎっぱなしにして、犯人を刺激しないように慎重に当時の様子を説明する対応をしました。
西沢裕司の要求通りに旋回した長島さんですが、西沢裕司が専門用語も用いて操縦を要求しました。その要求に対して慎重になだめましたが、西沢裕司は包丁で長島さんを刺し負傷させました。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】副操縦士と非番の機長
副操縦士の古賀さんはこの時外にいました。また、非番で同乗していた山内機長も離陸してからすぐに異変に気づきました。古賀さんと山内さんは外で最前列を空けたり、乗客の安全を第一に考えて最年長だった山内さん指揮で対応していました。
すると機体が急降下したことがわかり、山内さんらはコックピットに体当たりして侵入し、犯人を確保しました。機長の長島さんは操縦席で仰向けの状態になって意識を失っていました。その体に多い株札ように操縦かんを掴んで一気に引き上げました。
しかし、今度は急に失速してエンジンパワーを上げるスロットルレバーは山内さんの右側にあり操作が出来ない状態でした。ダメだと思ったそうですが、自動でレバーが全開になったことで操縦が可能になりました。実は長島貴重が刺される前に自動速度維持装置をオンにしていました。この機長の対応もあって犯人確保後、乗客を怪我させることなく羽田空港に着陸することが出来ました。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】西沢裕司の現在
西沢裕司は1999年12月20日の初公判でハイジャック防止違反、殺人罪、銃刀法違反の罪に問われ2005年3月23日に東京地裁は無期懲役の判決を下しました。精神鑑定も2回行われアスペルガー障害と抗うつ剤による影響と鑑定されましたが、刑事責任能力は否定されませんでした。現在も西沢裕司は刑務所で服役をしています。
【全日空61便ハイジャック事件!西沢裕司の生い立ちなど】まとめ
今回は1999年に起きた全日空61便ハイジャック事件について紹介しました。犯人の西沢裕司は羽田空港でアルバイトをしており、航空関係に非常に詳しかったことでハイジャックを簡単に行うことが出来てしまいました。このような事件が再発しないように全日空も再発防止をしています。機長の長島さんが殺害されてしまいましたが、乗客が無事だったのは機長や副操縦士などの対応のおかげでした。